赤岳鉱泉 6:30 すこし降る雨の中 美濃戸をめざして 下山 歩きはじめ 左ひざ すこし痛む 登山道は 昨夜の雨を集めて 小川に なりつつあり 行きに通った 南沢より こちら北沢は 沢にちかいところに沿う 集めた雨の水 で沢音 高い 沢の表情 美し 美し 滑らかな 岩をすべる ゆたかな 清らな水水水 続いてる 滝滝滝 冬を待つ 木々と草草 高度が下がると 晩秋がもどってくる 落葉松の黄色 ナナカマドの赤い葉と赤い実 そぼ降る雨に 美し 美し 1時間ほどで沢沿いの下りは終り 林道の平坦な道になり 左ひざは痛みから解放される シラビソの純林に ダケカンバが混じる 森の奥の方まで コケに覆われて 日本庭園のよう モノノケ姫の森のよう エメラルドのように濃いミドリの 艶やかなコケ やわらかく黄味をを帯びた ビロードのコケ いくつもの種類のコケが織り上げる 緑色の フカフカの カーペット 美し 美し 美し・・・・ ================ 33年ぶりの山 16才の自分と49才の自分 たった2日やったけど すばらしい経験 山に登ること とは 目の前の地面を見つめて 歩くこと ときおり立ち止まって 風景を見つめること 瀬の音 靴音 息音 耳朶を切る風の音 それすら消えて 無言無音無為の瞬間 自分と自然だけ ってこと ===================
山路を下りながら こう考えた
智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい 住みにくさが高じると 安い所へ引き越したくなる どこへ越しても住みにくいと悟った時 詩が生れて 画が出来る あ 思わず漱石の草枕 をパクッてしまった♪ しっかし草枕の冒頭はすばらしいね ぜひクリックして一読してください♪ やりなおし・・・・ ========================== 林道を下りながら こう考えた
自然は美しいか? 自然そのものは 美しくもなく 醜くもなく ニュートラルに ただ そこにあるだけ・・・ 沢は水が集まり 低きに流れる 物理現象 木々と草草は 環境適応し光を奪い合い 光合成と生殖を 繰り返して世代をつなぐ 激しく熾烈な 生存競争を営んでるだけ 結果としての 森の植層 紅葉と黄葉と緑葉 常緑植物と落葉植物 針葉樹林と広葉樹林 そして地衣類 自然とは 植物と動物と鉱物と地形と気象現象とが あるときある光景をヒトに見せる だけ それを見るヒトの目に 美が宿っている からこそ 自然を美しい と云い 自然を美しい と感じる だけ その「美」とゆう概念=精神=心の在り方=働かせ方を 思わず知らず わたしたちは 先人たちの仕事によって 絵画や詩歌や 文学や音楽や 映画や写真=芸術によって 教育され 学び 刷り込まれ なぞる から 自然に対したとき 美しいと 感じる だけ この「だけ」を 深く 喜びたい これが文化ってことや きっと ありがたいことである きっと 詩人文人画家音楽家たちは 味わうことの上手 見ることの巧者 言いとめ 描きとめるることの巧者 なにごとにも よき先達は あらまほしきことである が しかし・・芸術のヒトも 俗界俗世現実に生きるもの あらゆる人造の芸術作品には 計らいが ついてまわる あいつが こー描いたからには オレはこーオリジナリティを出す とか 彼の構図がこーなら ぼくはこー とか 作品ってもんは 計らいの取捨選択 で出来てるモノ 表現するものが避けて通れず 引き受けなければならない宿命 それが 計らい その はからい に倦んだときには 直に 生の天然自然に 向き合いたくなる 直に 自分と自然だけ になりたくなる どんな芸術家の どんな作品も 天然自然の 一枚の葉っぱの宿してる美 に勝てない すべての芸術作品はツマラン それを志向するヒトの営みがムナシイ と主張してるんではないんですよ そこんとこヨロシク これは レベル=位相の違うハナシをむりやり考えてる ってことなんですね♪ 草枕で漱石も こう考えてます 熟読玩味されたし 住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云(い)えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。丹青(たんせい)は画架(がか)に向って塗抹(とまつ)せんでも五彩(ごさい)の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼(しんがん)に映る。ただおのが住む世を、かく観(かん)じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得(う)れば足(た)る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家には尺(せっけん)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)し得るの点において、我利私慾(がりしよく)の覊絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、――千金(せんきん)の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。 自然には はからい がない 自然そのものは 美 ではない 自然を 見る人間の目に 美 が宿る 自然は 考えなしに ただ命の歌を歌うだけ 人間は 考えなしに 命の歌を歌うことができない
歌うことも 描くことも 作ることも 書くことも 愛することさえも 人間だけが 考えなしには なにごとも 為しえない 心のなかに 深い裂け目があって その裂け目 のことを表わそうとして いつも表現 は追いつき 追い越され 届き切った とゆーことはない いまだ それゆえに こそ これからも 言葉は語られ 画は描かれ 音楽は奏でられる 永遠に 八ヶ岳 登山口 |